真に美しいものに出会ったとき、自分は何をすればいいのか?
私の趣味は美しいものを探し求めることで、その対象は言葉であったり音楽であったり、あるいは女性であったりするのですが、時折、自分が何をしているのか分からなくなることがあります。
自分の行動原理の根幹をなす趣味にもかかわらず、最終的な目的が分からないのです。
本当に美しいものを手に入れたからといって、自分自身が美しくなれるわけではないですし、そもそも所有欲など数ある人間の欲望の中でも相当に卑しく忌々しいものの一つです。
加えて相対的に自分の醜さが際立つのですから、場を共有した際にはとても居たたまれなく恥ずかしく惨めな気持ちになることでしょう。
もっとも、恋煩いのようにただただ苦悶に耐えることが、その美しさに出会った代償とでもいうのならば、それは甘んじて受け入れるべきなのかもしれません。
では私は苦痛を求めているのでしょうか?
もしかすると、美しいものを探すこと、それ自体が目的なのかもしれません。
しかしながら探し当てた瞬間というものが存在する以上、やはり自分は何かしらの意志決定をしなくてはなりません。
発見の達成感と押し寄せる醜の認識、いや、真の美しさの前では自分の醜さなどさほど問題にならないのかもしれませんが、私はそれを見つけた瞬間に何をすればいいのでしょう?
その場から逃げ出せばいいのでしょうか?
その美を破壊すればいいのでしょうか?
結局のところ、今の私は美しいものに出会ったときに何もできません。
今の私は無意識のうちに出会ったものの欠点を探しています。
そして、何かしらの欠点を見つけて、ほっと胸を撫で下ろします。
でも、いつか本当に美しいものに出会うことがあるかもしれません。
そのときの私は何をすればいいのか、どういう顔をすればいいのか、いまだに結論を出せずにいるのです。
自分の行動原理の根幹をなす趣味にもかかわらず、最終的な目的が分からないのです。
本当に美しいものを手に入れたからといって、自分自身が美しくなれるわけではないですし、そもそも所有欲など数ある人間の欲望の中でも相当に卑しく忌々しいものの一つです。
加えて相対的に自分の醜さが際立つのですから、場を共有した際にはとても居たたまれなく恥ずかしく惨めな気持ちになることでしょう。
もっとも、恋煩いのようにただただ苦悶に耐えることが、その美しさに出会った代償とでもいうのならば、それは甘んじて受け入れるべきなのかもしれません。
では私は苦痛を求めているのでしょうか?
もしかすると、美しいものを探すこと、それ自体が目的なのかもしれません。
しかしながら探し当てた瞬間というものが存在する以上、やはり自分は何かしらの意志決定をしなくてはなりません。
発見の達成感と押し寄せる醜の認識、いや、真の美しさの前では自分の醜さなどさほど問題にならないのかもしれませんが、私はそれを見つけた瞬間に何をすればいいのでしょう?
その場から逃げ出せばいいのでしょうか?
その美を破壊すればいいのでしょうか?
結局のところ、今の私は美しいものに出会ったときに何もできません。
今の私は無意識のうちに出会ったものの欠点を探しています。
そして、何かしらの欠点を見つけて、ほっと胸を撫で下ろします。
でも、いつか本当に美しいものに出会うことがあるかもしれません。
そのときの私は何をすればいいのか、どういう顔をすればいいのか、いまだに結論を出せずにいるのです。
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